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細井平洲先生旧里碑

項目 内容
資料番号 000007
カテゴリ 鳥瞰図・地図・錦絵その他 / その他
タイトル 細井平洲先生旧里碑 / ホソイ ヘイシュウ センセイ キュウリヒ 
著者名 山村 蘇門/題額、秦 滄浪/撰、伊藤 墨海/書 
出版地・作成地 横須賀町(愛知県知多郡)
出版者・作成者 松田虎雄
出版年・作成年 明治43年(1910年)11月
年代 4 明治(1868-1912)
地域 尾張(知多郡)
現在地名(市町村名) 東海市
数量 1枚
大きさ 135.9×63.0cm
解題・解説 細井平洲(1728~1801)を顕彰するために故郷に建てられた碑の拓本(碑陽のみ)を、明治期に印刷したもの。

細井平洲は米沢藩主上杉治憲(鷹山)の師にして、尾張藩明倫堂督学の儒者。碑陰に刻まれた建碑の経緯を記した文に拠れば、平洲が江戸在勤中に没して7年目の文化4年(1807年)12月に、在藩の弟子の神野世猷・秦滄浪らによって、平洲の故郷知多郡平嶋村(現・愛知県東海市)の浅間山に碑が建立された。当時の大番頭(おおばんがしら)成田貞之右衛門の助力に与ったという。

碑文の構成については、題額「細井平洲先生旧里碑」陽刻9字(尾張藩元家老山村蘇門の揮毫)。銘文陰刻13行、毎行36字(秦滄浪の撰)。5行目「先君明公」の「先」1字を抬頭する。銘文の書は平洲の弟子で医師・書家の伊藤墨海の手になる。

銘文の内容については、平嶋村の風光のなかで遊び学ぶ、幼児期の平洲の姿を思い描く来訪者の視点から筆を起こし、京都・長崎に遊学し、江戸で学者・教師として評価される平洲の事蹟が語られる。のち尾張藩に招かれ後進の教育に尽力したこと、門弟間での立碑の合議のようす等が記され、末尾に「混々たる霊泉、其の源は何くにか在る/仁の里を観れば、自ら励まざるなし/ああ昔 先生、家を携えて東に家するに/今も邑人、追思すること無窮」と銘して結ぶ。

明治末になると、地域の偉人としての平洲が注目され、遺徳顕彰の気運が高まる。明くる年の平洲没後110年に合わせ、明治42年(1909年)に平洲会(知多郡平洲会)を発足する決議がなされ、知多郡教育会の附属事業として設立された。翌年、平洲の著述である『嚶鳴館遺草』が刊行され、同会主催の事蹟講演会が上野村(現・東海市)で開催された。当資料の出版年が1910年であることや、印刷兼発行者である松田虎雄が知多郡の教員として勤続していた人物と同一かと想定されるところから、平洲会による顕彰事業と何らかの関わりがあるのではないかと推測される。
関連情報 <参考文献>
『国史大辞典』12「細井平洲」の項(吉川弘文館 1991) 資料ID:1109730550
小野重伃『嚶鳴館遺稿注釈』初編 第3章(翻刻あり)(愛知県東海市教育委員会 1998)資料ID:1107641595 
『知多教育名鑑』(知多郡教育会 1929)資料ID:1101473625
『平洲先生事蹟講演集』(知多郡教育会附属平洲会事務所 1911)資料ID:1111457661
『東海市史』通史編 第5編第5章第3節(愛知県東海市 1990)資料ID:1110780607
羽賀祥二「二十世紀初頭の名古屋論――横山健堂の『新人国記』をめぐって――」(『名古屋大学大学文書資料室紀要』第16号 2008所収)「名古屋大学学術機関リポジトリ」(https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/11016/files/KJ00005468135.pdf 2021.10.6最終確認)
備考 資料名は題額による。
題額の筆者及び撰者名は「日本古典籍総合目録」の統一著者名による。
右上部に「郷」と「藤紫楼」の朱印あり。
キーワード 細井平洲 碑 拓本
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リンク https://www.aichi-pref-library.jp/s005/20250303165417.html
資料コード 1103260868
請求記号 Wコ/A289/ホ7
目録タイトル 細井平洲先生旧里碑
著者標目 山村, 蘇門, 1742-1822、秦, 滄浪, 1761-1831 / ヤマムラ, ソモン, 1742-1822、ハタ, ソウロウ, 1761-1831
書誌ID 1100255713